LOGIN「間違いだったかどうかより」 司が、唇を噛んだ。「俺、君を選ぶことで、栞を黙らせた」 未央は言葉を失った。 そんな言い方をされたことはなかった。 清潔に保たれた廊下の匂いが、かえって閉じ込められた部屋の湿気を際立たせていた。 司が未央を選んだ。それだけは、ずっと疑ったことがなかった。「やめて」 未央は低く言った。「そんなふうに、私たちのことを汚さないで」「汚れてたものを、見ないようにしてただけだと思う」 司の声は震えていた。 震えているのに、逃げない。 未央は、急に怖くなった。 司は、いつも逃げる人だった。曖昧に笑い、家のせいにし、未央が泣けば黙った。だから扱いやすかった。 なのに今日は、逃げない。 逃げない司は、未央の知っている司ではなかった。「私、本物なの」 気づけば、その言葉が口から出ていた。 桐生会長が目を細める。 司も黙った。「如月家の娘なの。だから、司さんの隣にいていいの。そう言われたの。そうじゃなかったら、私、何なの」 声が崩れた。 今度は、本当に涙が出た。 けれど、司は立ち上がらなかった。 桐生会長が、弁護士へ目配せする。「如月家との婚姻話は、法的確認が終わるまで白紙です。未央さん、今日はお帰りください」「白紙」 未央は、その言葉を繰り返した。 白紙。 未央は、テーブルに並んだ「如月未央」の文字を見た。今、その文字まで薄くなっていく気がした。「司さん」 最後に、彼を呼んだ。 司は目を閉じた。 言葉はそこで止まった。 未央は立ち上がった。 テーブルの上の茶には、一口も手をつけていない。湯気はもう消えている。 部屋を出る時、指輪がドアの縁に軽く当たった。 乾いた音がした。 車に乗り込むと、涙は止まっていた。 代わりに、肋骨の下がすうっと冷えていく。 スマートフォンを
弁護士が、初めて口を開いた。「ただし、発表をすれば、桐生家がその内容を保証したと受け取られます。現時点では、出せません」 出せません。 たったそれだけの言葉で、未央の足元から、柔らかな絨毯が剥がされた気がした。 未央は司を見る。 司は目を合わせなかった。 その仕草だけで、腹の底が冷えた。「司さん」「未央」 司の声は疲れていた。 それが、余計に腹立たしかった。 疲れた顔をしたいのは、こちらだ。「説明して。何の再確認? 私たち、もう式場も」「式場には、仮押さえの解除を連絡した」 未央の指が止まる。「誰が」「俺が」 司は、ようやくこちらを見た。 その目に、以前の曖昧な優しさはなかった。けれど、強さとも違う。何かを失ったあとの、諦めに近い色だった。「勝手に?」「勝手に進めてたのは、俺たちの方だ」「俺たち?」 未央の声が低くなる。「私が、いつ勝手にしたの。私は、司さんと結婚するって、ずっと」「未央」「ずっと待ってたのよ」 最後の音が揺れた。 泣け。 体のどこかが命じる。 泣けば、司は困る。困れば、こちらを見る。昔はそうだった。困ったように眉を下げて、未央を傷つけない言葉を探してくれた。 ただ、司は視線を逸らさなかった。「栞にしたことを、確認してる」 栞。 その名前が出た瞬間、未央の中の何かが、薄く裂けた。「また、その名前」「避けてきた名前だ」 司は、言い訳を飲み込むように言った。「俺が」 未央は笑った。 笑えた、と思った。「立派ね。今さら反省して、いい人になったつもり?」「いい人にはなれない」「じゃあ何? 栞に許してもらうために、私を捨てるの?」「許されるとは思ってない」 司の返事は、いちいち未央の欲しいところを外してくる。 優しくない。
如月未央は、桐生家の応接室で待たされていた。 使用人が置いた湯呑みから、湯気が細く上がっていた。 時計の針が動く音が、妙に耳につく。 以前なら、この部屋に通されるだけで少し誇らしかった。桐生家の応接室は、如月本家の客間とは違う。新しい家具、控えめな照明、壁に掛けられた海外の風景画。司の家の匂いがした。 ここへ来ると、自分は選ばれた人間なのだと思えた。 如月家の本物の娘。 桐生司の婚約者。 その肩書きが、やわらかなソファの背にまで染みている気がしていた。 けれど今日は、使用人が茶を置いたあと、目を合わせなかった。 それだけで、胸の奥に嫌なものが広がる。 未央はスマートフォンを伏せた。 九条康生からの返信は、まだない。 昨夜から何度も送った。 私は本物なんですよね。 如月家の娘なんですよね。 司さんとの婚約は守られますよね。 どれにも、答えはない。 既読だけがつく。 既読が増えるたび、爪がスマートフォンの縁に食い込んだ。 扉が開いた。 入ってきたのは、司ひとりではなかった。 司の父、桐生会長。その後ろに、顧問弁護士らしい男がいる。 未央はすぐに立ち上がった。「お義父様」 いつもの声を出そうとした。 少し高く、少し柔らかく。可愛げがあって、失礼にはならない声。 桐生会長の顔を見た瞬間、その声は途中で細くなった。「まだ、その呼び方は早い」 その一言に、未央は返事ができなかった。 司が少し顔を歪める。「父さん」「座りなさい」 未央は腰を下ろした。 膝の上で指を重ねる。指輪が光る。婚約指輪ではない。司が最近贈ってくれたものだ。細いダイヤが並ぶ、上品で、誰に見せても恥ずかしくない指輪。 でも今、それは急に軽く見えた。「結論から言います」 桐生会長は、弁護士から受け取った書面をテーブルへ置いた。「婚約発表は延期します」 未央の
本当に、行くつもりはなかった。 でも、足が動かなかった。 廊下の先には、白い扉がある。小さな窓には曇りガラスがはめ込まれていて、向こう側は見えない。声だけが、細くこちらへ届いている。 遠くで金属の棚が揺れる音がして、病院特有の匂いが部屋の隙間に入り込んだ。 葵さんかどうかは分からない。 分からないのに、足裏が床に貼りついたようだった。「帰りましょう」 律が言った。 私は一度だけ白い扉を見て、頷いた。 外に出ると、空気が少し冷たく感じた。 車のドアに手をかけたところで、私は一度だけ振り返った。さっき歌声が聞こえた廊下は、もう入口からは見えなかった。 車に乗り込む前、高瀬さんの端末が鳴った。 療養院からの受領書が、もうメールで届いていた。「早いですね」 相良さんが言う。 高瀬さんは添付ファイルを開き、眉を寄せた。「朝霧さん。少し確認してもらえますか」 私は端末を受け取った。 PDFの受領書。 差出人は青嶺療養院事務局。 内容そのものは普通だった。受領日時、受付担当者、回答予定日。問題は、文書情報の欄だった。 作成者。 KMS_KJ. 更新時刻は、私たちが施設に到着する三十分前。 受領前に作られていた。 私は画面を見たまま、端末を持つ手を止めた。「……これ、療養院が今作った書類じゃありません」 律の視線が、こちらへ向く。「それ、どういう意味ですか」「私たちが来る前から、拒否後の受領書が用意されてました」 言い切った途端、高瀬さんが端末を取り戻し、画面を拡大した。「作成者情報だけで、誰が実際に作成したかまでは断定できません。テンプレートを使った可能性もあります」「そこまでは分かります」「ただ、受領前に受領書が作られていたこと。作成者名にKMS側の識別子が残っていること。この二つは記録できます」「記録できます」 私は画面のKMS
「承知しています」 高瀬さんはすぐに頷く。「では、質問を変えます。貴院では、外部者からの面会申入れについて、利用者本人の意思確認を行う手続きがありますか」 施設長の指が、膝の上で小さく動いた。 紙コップを持つ手に、薄い水滴だけが残った。「一般論としては、あります」「今回、実施されましたか」「個別の件については」「実施の有無だけで構いません。対象者名を明示しない回答でも結構です」 施設長は、事務責任者を見た。 その視線の短さで、答えは分かった気がした。「今回は、家族側管理方針に基づき、本人への確認は行っておりません」 その言葉の重みが、腹のあたりまで落ちていった。 本人に確認していない。 やはり、葵さんの声は、どこにもなかった。「その家族側とは、どなたですか」 私が初めて口を開くと、施設長の表情がほんの少し硬くなった。「お答えできません」「では、その方は、本人の意思を代弁する法的権限をお持ちですか」 事務責任者の視線が、書類へ落ちる。「管理上の取り決めに基づいております」「法的権限じゃなく、取り決めですか」 高瀬さんは、手元のメモから顔を上げなかった。「朝霧さん」 施設長が、私の名前を初めて呼んだ。「お気持ちは理解します。ただ、当院にも守秘義務があります。突然来られた方に、利用者様の情報をお伝えすることはできません」 突然。 その言葉が、胸に引っかかった。「突然来たのかもしれません」 私は言った。「でも、本人に何も確認しないまま、突然来た人だから会わせないと決めたのは、私じゃありません」 施設長の唇が止まる。「会わせてくださいとは、今は言いません。本人が会いたくないなら、帰ります。でも、会いたくないと言ったのが本当に本人なのか。……それだけは確認してください」 言い終えてから、自分の手が震えていないことに気づいた。 施設長はしばらく黙
「名前を出さないんですね」「今は出しません。出すことで相手に閉じる理由を与える場合があります」 閉じる理由。 その言葉は、受付のアクリル板より冷たく感じた。こちらが一つ間違えれば、葵さんを記録の奥へ隠す口実にされる。私はバッグの持ち手を握り直した。 車が信号で止まり、前方のブレーキランプが窓に赤く映った。 私は面会申入書の一枚目を見直した。「会わせてください、とは言わない方がいいですか」「言っても構いません。ただ、相手は医療機関です。感情に応じて面会を認めることはできません」「感情だけでは通りませんよね」「でも、本人の意思を確認してください、とは言えます」 私は顔を上げた。 高瀬さんは、そこで初めてわずかに表情を和らげた。「そこが大事です。誰かが会わせないと言ってるのか。本人が望まないのか。医療上、本当に会えないのか。……全部、別の話です」 律は、隣で黙って聞いていた。 車椅子には座っている。いつものように膝には薄いブランケットがかかっている。昨日、私はその手に触れた。傷跡の凹凸も、温度も、まだ指先が覚えている。 そのせいか、車椅子の肘掛けに置かれた律の手へ、目が行った。 青嶺療養院は、街の外れにあった。 高い建物ではない。白い外壁と広い駐車場、入口には季節の花が整えられている。病院というより、静かなホテルに近い。けれど、門の前に立つ警備員の姿が、ここが簡単に入れる場所ではないことを示していた。 相良さんが先に降り、受付に事前連絡の件を伝える。 身分証の確認。同行者の名簿照合。録音機器の申告。持ち込み資料の封筒確認。 ここまでは、九条本邸と似ていた。 でも、療養院の空気は違う。 奥の廊下から、車輪の音が聞こえた。誰かが小さく咳をする。消毒液の匂いに、柔らかい洗剤の匂いが混ざっている。私はそちらを見た。 応接室に通されると、施設長だという女性と、事務責任者の男性が入ってきた。どちらも丁寧だった。丁寧で、遠かった。「本日は、事前の照会に対するご説明のみと
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし







